2020年3月卒の、関東陸上長距離大学生の卒業生特集を行います。
箱根駅伝やインカレ出走者を中心に各大学有力ランナーの4年生の選手の成績とエピソードを振り返ります。
なお、入学直前の箱根駅伝の順番で振り返ります。
続いて、箱根駅伝2017で総合3位だった早稲田大学になります。
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スポーツ推薦枠が3枠、あとは他推薦や一般入試で人数を確保する少数精鋭の早稲田大。そのスポーツ推薦枠の条件や入試日の関係のため、必ずしもほしい選手が獲得できない場合があります。
”谷間世代”とうたわれたこともあったこの学年の4年間は様々。箱根駅伝で表彰台を確保したこともあれば、シード権落ちもあり。最後の学年は、スピード豊かな下級生の台頭との競争もありました。その彼らの4年間を振り返ります。
宍倉選手は早稲田実業からなので、系列校からの入学でした。その中で、5千m14分04秒の記録はこの世代トップ。都道府県対抗駅伝でもまずまずの走りを見せていました。
入学直後から、期待が高く、関東IC・日本IC5千mに出場。日本ICは入賞争いをしての14位とまずまずの結果を残します。出雲駅伝で早速デビューの予定でしたが、怪我をして回避。全日本駅伝5区で、スライド出場するも区間20位とブレーキし、シード権落ちの一因に。その後1万m29分17秒のベストを出しますが、箱根出走とはなりませんでした。
2年時は秋になって復調し、10月記録会で29分19秒をマーク。全日本2区で出走し、他校のスピードランナーと戦い抜きます。ただ、その後の上尾ハーフで65分台どまり、またもや箱根駅伝の出走を逃すことになります。
3年時は、全日本&箱根とも予選だった年。全日本予選の頃は調子は上がらず、補欠。箱根予選は出走しますが、予想外の酷暑に苦しみ254位となります。中々結果が出ない時期が長く続きましたが、ここからようやく宍倉選手の素質が開花します。
箱根前に、1万m29分07秒のベストを出し、本戦で10区ようやく登場!スタミナ面の不安視がありましたが、7位で受け取るとあの駒大石川選手と終始並走。残り700mからのラストスパートを制して、ゴール。ついにロードレースで結果が出ました。
最終学年、コロナ禍のあった春は故障で苦しみましたが、夏に急浮上。全日本エントリーには間に合いませんでしたが、直後の記録会で5千m14分01秒でついに高校時代のベストを更新!その後の記録会で1万m28分16秒の大記録をマークします。
最後の箱根は7区へ。唯一の4年生の出場でした。ルーキーに任せた山区間で失速があってシード権外の11位でタスキを受けます。すぐ前の青学大があっという間に遠ざかる難しい展開の中でしたが、後半に余力が残っていました。終盤で順位を上げてシード権内へ、その前も見える位置に引き上げました。
区間8位の結果には納得いっていないと思いますが、4年生としてできうる限りの走りをしました。卒業後は、最近NY駅伝好調のJR東日本へ。この世代唯一協議を続けます。抜群のスピードを見せるのはこれからです。
インカレ出場と駅伝エントリーみていると、主将を務めた吉田選手がずば抜けていますね。三大駅伝に関しては、故障明けだった4年全日本以外は全てエントリーしていますね。
高校時代は3000m障害が専門で、IH3位表彰台。その一方、高校駅伝上り基調の3区でも区間一桁の結果を残していました。入学直後、六大学対抗戦でまずは3障でデビュー。法大青木選手らに食いつく形で8分55秒24で3位入賞。関東IC(次点予選落ち)、日本IC(6位入賞)でもしっかり戦っています。
駅伝でも1年生でデビューし、全日本駅伝で7区を担当。この時は7位(当時シード圏外)で襷を受け取り、突っ込んだこともあり区間15位と苦しみました。
2年・3年時は3障が非常に充実。2年時は関東IC・日本ICどちらも5位入賞を果たすと、3年時は関東ICでは表彰台3位へ。日本選手権にも出場するなど活路を見出していました。
一方。駅伝では悔しい思いをします。2年時10月に1万m29分58秒90のベストを出すも出走ならず。直後の上尾ハーフで63分55秒のベストを出すと、イーブンペースで推す事と上りが得意ということで、5区山登り第一候補にあがっていました。ところが、本番1週間前に、自転車事故で骨折。結局、三大駅伝全エントリーも出走なりませんでした。
3年時になってぐっと力が増して、全日本予選では3障もこなしながら2組11位でチームに貢献すると、箱根予選はチームが苦しむ中102位と粘ります。中1週間となった全日本駅伝はアンカーを任され、区間9位と堅実な走りでシード権を確保。安定感とタフさが光りました。
箱根駅伝は2年越しの5区山登りへ。順位を上げる走りを期待されますが、中盤以降徐々に区間順位が低下。12月に入って故障を抱えての出走だったそうですが、区間15位と苦しみます。
主将となった最終学年も故障が多くなってしまいました。何とか出場した日本IC3障は9位で入賞を逃します。12月となった日本選手権3障への出場権もありましたが、実業団で続けない選択をした吉田選手は、最後の箱根に全てを駈けます。
故障は完全に癒えてはいませんでしたが、11月頭に5千m14分10秒台、その後学内のハーフで63分少しの結果。復路の終盤区間の選考に最後まで残りますが、僅かの差で出走メンバーに入れず個人では涙に。その中で、懸命に伝統校の競争部を支えました。
渕田選手は下級生の時に山下りでチームに貢献しました。そして、彼も3障を専門にしていて関東インカレにも出場した経験を持っています。
1年時は3障目立った実績が少なかった中、箱根駅伝にエントリー。山下りに配置されました。下りの部分は区間一桁相当で推移、最後の3㎞のスタミナが持たなかったですが、区間11位とまずまずの走りをします。順調なら4年間任せられるほどの結果です。
2年時に挙がる直前のハーフで64分54秒と、平地でも粘りの走りを披露。2年連続出走となった山下りでは前年よりタイムを短縮し59分台で走破。ただ、高速化の波が始まったところ区間11位のままだったのは悔しいところでした。
3年時の春に30分11秒と1万mベストを出しますが、その後は故障に悩まされることが多くなりました。3年時の箱根にエントリーはされますが、出走は後輩に譲ることに。4年時はレースにもなかなか出れずになりました。それでも難しい区間を支えてくれたのは、印象に残っています。
あとはもう一般入試組になってきます。その中で最もレギュラーに瀬俣野は住吉選手です。高校時代のベストは5000m15分27秒でしたから、よくここまで這い上がってきたといっていいでしょう。
さすがに1年・2年時はレギュラー争いには参戦できずも、その中で力を蓄えていました。3年時の上尾ハーフで64分41秒と大幅ベストをマーク!箱根駅伝の16人エントリーに入り、初めて三大駅伝に名前を連ねます。
勝負の最終学年、10月の記録会で29分27秒でトラックのベストも伸ばして、全日本駅伝13人のメンバーに入ります。ただ、11月以降は調子を落として、箱根エントリーはならず。それでも全大学の中でもかなり記録を伸ばしたのではないでしょうか。
高校時代は14分40秒を出していて、まずまず高い競技力がありましたね。3000m障害も得意としていて、3年時に9分11秒07のタイムを出して、関東インカレに出場を果たしています。
その年に30分23秒73の1万mのタイムを出しましたが、三大駅伝のエントリーに絡むことはかないませんでした。
高校時代に5千m14分49秒のベストを持って入部、2年生の時に14分47秒に更新しています。3年時に男鹿駅伝でアンカー区間を走るなど、レギュラー争いに参戦しかけたこともありますね。
残念ながら名前を連ねることはできませんでしたが、4年時に5千m14分44秒に更新しています。
最後に黒田選手を紹介します。4yearsで特集されていましたね。高校時代の途中にヌケヌケ病にかかり、迷った末、治療しながら早稲田大で競技を続けることを決意します。
とはいえ、早大の部内競争は激しく、2年時の7月にマネージャーになるかならないか瀬戸際でした。ギリギリのところで勝ち残り、競技者生活を続けます(武士選手がマネージャーになり、SNSなどで引っ張っています。)。
3年夏に克服し、少しずつ競技力アップ。上尾ハーフで67分42秒のベストをマークしています。レギュラー争いは遠かったですが、4年時の10月には5千m14分56秒のベスト。高校時代のベストにあと一歩まで回復。
11月には1万m30分11秒の大幅ベストを残します。年末の漢祭りは突っ込んで入り、入りの5000mを14分48秒、非公認でありながら5千mベストを上回るタイムで通過、最後は失速しましたが、競技力の向上への執念が実りましたね。